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Chapter 2 (放送:2003/05/24 〜 >>放送を聴く
科学温故知新 「高柳健次郎」

 1899年、浜松市に生まれる。小学校では劣等生で過ごしたが、高等科で教育熱心な渡瀬晴吉先生に巡り会い教師を目指す。

 教師にならなければならない当時のきまりがあったものの、子供の頃からの電気への憧れによって、東京工業大学の前身の東京高等工業に進学。ここで教授の中村幸之助から「今流行している技術をやりたがってはダメだ」と訓示を受け、将来の日本になければならない技術を10年、20年かけて作り上げるよう指導され、自らの人生をテレビの開発にささげる決意をする。当時、日本ではいまだラジオ放送も開始されていなかった。1923年。当時24歳。

 浜松高等工業学校で全電子式テレビ放送システムの開発に取り組んだが、結局開発予算の制限から撮影側はすでに技術の確立されていたニポー式を採用した半電子式テレビを世界で始めて開発し、当時は物理研究の測定器に使用していたブラウン管を受像装置に採用した走査線40本のシステムで「イ」の字を表示することに成功した。

 しかし、当時はブラウン管を使用しない機械式受像装置が脚光を浴びていた。その理由はブラウン管は当時いまだ大型化が成されていなかったからだったが、高柳健次郎は将来生き残るのは全電子式以外にありえないと確信していた。

 1930年、当時31歳だった高柳健次郎はコンデンサを用いた電子式撮像間を考え付いて特許を申請した。これを実際に稼動可能な状態にするまでに5年の月日を要したが、1935年、走査線220本の全電子式テレビがついに実現した。高柳健次郎36歳だった。

 その後、NHKの研究所でテレビ実用放送の研究に携わったが、太平洋戦争のためにテレビの研究からは遠ざかり、戦後はGHQの指示で公共事業であるNHKへの戻ることを禁止され、日本ビクターでテレビ技術の改良や技術者の育成に尽力し、その後、VTRの開発へ取り組みやがて、後輩によってVHSとしてその取り組みが開花した。

 1989年、勲一等瑞宝章を受章し、翌1990年、享年91歳で死去した。

今週の用語集

【高柳健次郎】
 1926年に世界で始めて全電子式テレビを開発し、ブラウン管を使用した受像装置で「イ」の字を映し出す事に成功した。今日のテレビ技術をゼロから独力で開発し、晩年はVTRの開発に取り組み、VHSの開発を後進にゆだねた。